昭和49年06月15日 朝の御理解



  御神訓 一、「信心する人は何事にも真心になれよ。」

 「信心する人は何事にも真心になれよ」と。信心所謂真心になれと。日頃頂いておる、御教えをまぁ行じよという事。同時に、真心とはここでは真心【まごころ】と書いてありますね。真心になれよと。日頃頂いておる御教えを頂く、行ずると言う事は、こりゃ真心にならなければならんのですけれども、それを検討違いを致しましたり、間違ったり致しますと、真心が真心になりません。返って神様にそのお気付けを頂くと言った様な事にすらなるのです。もう私福岡で修行中の時分でした。
 福岡の教会に「白石」さんという、ご夫人が熱心に、な信心をなさっておられました。確か末永先生あたりの遠い親戚に当たる方です。女でも非常に、まぁ言うなら熱心で、まぁやり手のお方でしたが、金光様からと女ながらの、月参りをなさるたんべんに、お書き下げを頂いておられました。何時も私の話を聞きに来て下さっておったんですけれど、旅館をなさっておったんですけれども、大変こうふの良い流れで大変こう、まぁ左前になってもう困っておられた。
 私がまぁ一生懸命御用もさせて貰いよるし、信心もおよばんまぁ熱心にさせて頂いておるのに、どうした事だろうかというて、お伺いをされた事がありました。その頃神様から色々お知らせを頂いておりましたから、神様にお願いをさせて頂きましたら、草履がねもう滴が落ちる様に、ズタズタになってるのをこうあの鼻緒の所に、一反引っ掛けてこうぶら下げられておる所を頂いた。草履。いうなら雨の降る日に草履を履いたら、滴がでる様になりますよね。草履ですから。
 御理解に言わば使う事の出来ない事に使うたと言う意味なんです。雨の降る日に草履はいけないのに草履を使うたから、渇く間暫くぶら下げられておったち。だから滴が落ちる様に、言うならば苦しい所だと言う御理解頂いて。どう言う事だろうかと言うて、まぁなんかそう言う様な事があっとりゃせんですかと言うて、思い出さんかと尋ねたんですけれども。戦時中に、それこそ女ながらも飛行機を一台献納されたんです。
 まぁその当時としては、まぁその一般国民としてはまぁ出来るならそうする事が当然であり当り前であり、又はしかもあの福岡教会を通してから奉納されたんですね。そう言う事なんです。当時飛行機を(おいじられ)献納された。その事がです例えば天地の親神様の見地からするとです、日本人であろうがアメリカ人であろうがね、いわゆる神様の氏子です、その氏子それが例えば殺し合いの、言うなら道具を献納した。真心【まごころ】であっても、真心が検討が違うとそう言う事になるんです。
 今度13日会の後に、植木の剪定やらやっておられる。それ文男先生が裏のこう言うなら受持ちでやっている、もう私は驚いてしもうたごとある、もうつつじなんでんごんがら坊主に切ってしもうとる。私は昨日はもう1日ずうと腹かいて、やかましいいうどうした馬鹿じゃろうかちいうてから、まぁいくら言うたっちゃ怒ったちゃしょうがない、もう切ってしもうとるとじゃけん。
 もうとにかくあの竹林なんかもう、太か竹はもうみんな切ってしもうとるし。庭の方なんかもうチンチクリンに切ってしもうちからも、もうさらもう見る見られた庭じゃなかったと言う訳なんです。だから私夕べなら日田の共励会から帰って来たから申しました。もうあんたがもうもし是が庭師どんが、しとるとならばっさい、その金どん取られるだんのこっちゃなか、それこそおごられたうえ賠償金ださなんばいち私は申しました。
 とてもつつじが、あんしこまで大きくなっとるとにあんた、そればあんたぼすぼす切ってしもうてから。それがもう誰ん切りきらんじゃったけんで僕が切ったとこう言う。そりゃ誰でん切りきらなったろうたい。私が昨日はだからずっとあん、勇さんが付いて回りござったけん、ははぁこの人が監督し御座るけんよかたいと思いよった。それは私は昨日勇さんにもそれ申しました。あんたずっとついて回りよってから、こげな事させちから。それが私はもう自分の裏の蘇鉄園のとこだけと思うとった。
 所が実際昨日なった所が、被害が随分こうおおなったもん。これは成程まぁ真心【まごころ】でしたといや、真心でしたんです。けれどもやっぱりですね、誰んしきらん事をしたと言う所にきに、不順なものがあった様に思うですね。それで言うならば、おごられてまでほんな晩な、そのまま8時までしたそうです。それだけ一生懸命やっておりながらです、喜ばれる所かおごられとる。まぁ賠償金取らんだけが、まぁ良かった訳ですけれどもね。まぁそう言う様な事がね、お互いありゃせんでしょうかね。
「信心する者は何事にも真心になれよ」というのです。私は今日ご神前で「真如の月」と言う事を頂いた。真如。真の如しの月と言う事。そしてこの今日の御神訓を頂いております。だから「信心する人は何事にも真心になれよ」と言う事は、真心になれよとここに、はっきり書いてある。真心【まごころ】と書いて、真心と読む時がある。真如の月と言う事はどう言う事だろうか。何事にも真心にならないとですね、その罰金を取られたが、おごられたらなかったに致しましてもですおかげが受けられん。
 本当の言うならおかげになって来ない。真如の月とはどう言う事か知らんけれども、まぁ言うならば十五夜のお月様、雲霧一点ないそれこそ鏡の様な月を言うのじゃないでしょうか。それが真心なんです。昨日信徒会でここからも何人もおかげを頂いて、日奈久の教会であった。秋永先生が帰って来てから、あちらの模様を色々話ておられます中に、丁度今月の二日の朝の御理解、先生が月次祭のお晩泊まって二日の朝の御理解を頂いた。その時に皆さんも記憶が新しいと思うですけれども。
 私が名前を出さずに○○さんがこういう瀕死の重態であって、もうお医者からもう准のっといわれて、そしてとそこの教会のでももう、いわばサジを投げた様な状態だと言う事を、福岡の信者さんから聞いてきた。秋永先生。あれは平田信吉さんの事だったんですよ。あの尿道に何か癌が出来るんですね。どうも手術のもう施しようがなかったんだそうです。手の付けようがなかった。
 だから死を待つよりあの他に道はないと秋永先生が聞いてきた事を月次祭の晩に、私に話ましたから聞いてはおりましたけれども、そんなに酷いとは思わなかった。それで明くる朝の御祈念の時に、お願いをさせて頂いておりましたら、あの広い信心と深い信心がプラスになっておかげと言うあの御理解頂いた時ですよね。平田さんそれこそ全国を又にかけて、ならお道の為にそれこそもう合楽、甘木の信者と言った様なものじゃなくて、もう本当の金光教の信者として。
 金光教の発展を祈り願われるあまりに、あぁしてそれこそ自費で全国回ってまわれると言う様な、広い信心をなさっておられる。だからこの人に、自分と言う物を本当に見極めると言うかね、言うならば、自分と云う物を深めると言う事によってね、広い深めると言う御理解だったです。ね、あの時深めると言う事はなら、我屑の子という自覚が本当に出来る事だと言う事でした。それで秋永先生がそれで、御理解がすんでお届けをされます時に私が御神米を下げました。
 そして今日私が○○さんに付いて話したとは、平田さんのこっちゃんのと言うて、そうですか、実は明日から京都行きですから、今日はどうでもお見舞いに行きたいと思うという事でした。2、3日前あの鹿児島の安武先生が来ておりましたが、あのその事いってましたが、そりゃそりゃもう具合が悪くても、お見舞いにでも行ったらおごられてみんなが帰って来ると言うですか、もう誰も行かん怖がってと言う様な状態だった。勿論行っても面会謝絶だったそうです。
 ですからあの秋永先生が行ったが、それから話を聞かなかったからどげんなったか、どげんなったじゃろうかと思いよったらその、昨日たまたまそちらの、甘木関係の先生が平田さんの話をなさったんです。秋永先生が御神米をもって、その御神米に私がその屑の子の自覚になれと言う事を、書いて御神米を下げました。それで行った所があちらのお母さんと娘さんが、もうそれこそ入り口に立っとってから、入らせなさらんじゃった。冗談の事今日は私はもう絶対神様の御用で来っとるとじゃから。
 どうでも合うちうてもう強引に合って、そして合楽で頂いたお話をさせて頂いたらもう、涙を流して喜ばれた。そしたらその明くる日からですね、癌がおりだした。下りだした。その時に皆さん覚えておららましょうけれども、そう言う事になったらもう即効おかげになる、と言うお知らせを頂いたんです私は。だからそう言う風にお話しとりますでしょう。手術も出来ない。
 同時に昨日聞いたんですけど、糖尿病だから、そんな尚更出来なかったんだそうですね。それがですよ、その言うならば、秋永さん有り難うと。親先生にどうぞよろしゅう言うて下さいと言うて、涙を流して喜ばれたと。恐らく本当に屑の子我の自覚が、やっぱ出来なさったんじゃないでしょうか。明くる日からそれがおりだした。癌が全部。流れて来よるとですね。大変なおかげを頂いておられると言う話を聞いて、まぁそりゃ私が願ってやったものでもなからなければね。
 又願ってあげて全快されたから、合楽でこう言う、まぁそれ以来合楽では、十人あまりの方達が平田信吉さんのお届けを毎日なされます。その話を聞いてからね。いやだからそりゃおそらく言うならば、先生の話を聞いた人ならばです、沢山な人が、言うならばお祈り沿いなさっておられるでしょう。所がねそれこそ大きな荷車が、もうこうあのぬかるみに入って、ギスともせんごつなっとった。それを押したり引いたりし、あの車をこうやって上げたりしよるけれども、中に入って引く人がおらん。
 言うならばだから私が車力の引き手を握って、引いたそれに皆さんのお祈りぞえで、押し上げたと言った様なまぁ感じがするですね。これは決してならあの恩着せだとかそう言う事でも決してさらさらない、いわゆる真如の月の様な心で、とにかくあの人が全快のおかげを頂かれたらまだ新たなですね、御用が広く深く出来れる方だと言う所からの願いだと。もう本当になら最近の合楽での、言わばおかげと言う様なもの、本当に凄まじいねと言うて、昨日も話た事でした。
 それでその事を私は神様にお礼を申させて頂いておりましたらです、まぁ言うならがっかりする様な事を頂くんですよね。あのよく映画テレビなんかであの、尺八を吹いたり三味線を弾いたりするのが、役者では実際ふけん訳です。弾けんわけたい。だからこう形だけするわけです、そすとそこの影の方で本当の上手な三味線なら三味線弾きさんが、こうやってねあの弾いておるという、そういうあの演出をやってるでしょう。例えば昨日もそんな映画があっていました。しんないを弾いております。
 けどもそのしんないは実際は、しんないの三味線弾きの名人が弾きよると、と言う事は分かる。それで手をこうやって動かしておるだけなんです。そんな状況を頂いたんです。いわゆる私が取り次ぎだから、私が弾きよるとじゃないと言う事。後ろで奏で御座るとは神様だ、金光大神様のお徳だ、力だと言う事なんです。だから私は本当に自分の祈りの念力なら念力が強うなっとる様な事を思いよるけれども。
 実を言うたら神様が、おかげを下さるのであって、けれどもその何故下さるかと言うと、真如の月の様な心で祈ったからだ。願ったからだと私は思うんですね。同時に私が又頂きます事がねその皆さん、あの三味線を小さい子供が稽古する時にはもう、下に下ろさなければ棹が届かんのですよ。大人でなからなきゃ棹が手が、上の方へ届かんです。子供は、途中までしかいかんです。これではねこれではなら例えば映画でですよ、この辺だけでこうこうしよったんじゃ、後ろからひいと弾いてやられんって神様。子供じゃだから御心眼頂くとやとかっと、上の天神の下ん所までこう届く所まで、まぁ子供が三味線を弾きよっ所を頂いたです。
 だから私の場合はまぁ、ほんのやっとかっとじゃあるけれども、天神上の所を天神と言うんですよ。こう曲った所をね。天神の下のとこ上まで位置、上まで手が届いている。手が届いておるから弾きは切らんけれども、これをならこうこうやって動かしよると、後ろから神様が弾いて下さるから、丁度いかにも私が弾きよる様に見えるんだと言う事なんです。そしてから今朝からなら頂きます、なら真如の月と言う事を頂いてです、それやらこれやら、そして又今日の御理解を思い合わせて思うて見るとです。
 成程お月様自体鏡の様に、それこそ満月のお月様の夜などは、もう昼をあざまかんばかりに明るいでしょう。けれどもね、その月そのもには、光はないと言う事です。それは太陽の反射を受けて初めて光が、それこそ昼をあざむく様な明るい事になるんだと言う事なんだ。所謂私には力はないけれどもです、そこまでお互いを育たせて頂くとです、神様が影で弾いて、それが本当に私が弾ける様にして下さるという事はどう言う事かというとです。言うならばまだ十五夜と迄はいかないに致しましても、ね。
 満月とはいかないに致しましても、まぁ三日月さんか半月さんぐらいな所までおかげを頂いておるんじゃないでしょうか、私の心の上に。真如の月と言う事は、十五夜の月であるならば、私の月はまぁ三日月さんぐらいな、ぐらいなぐらいまでには、心が開けておるのではないでしょうか。だから三日月さんなりの明るさが出来ておるのだと言う事なんです。ならその真如の月と言う事は、ならどう言う事かというと、所謂十五夜の様に、丸い心だと言う事。鏡の様な心だと言う事。
 もうそれをお道の信心でいうと、和賀心と言う事なんです。
 だから完璧にと言う事じゃなくても、その和賀心をいよいよ追求し、求めてです和賀心を自分のものにして行く所の一生懸命の信心させて頂く所からです、三日月さんか半月さんぐらいにでも、自分の心がおかげを開けて参りますと、それに太陽の光が反射する、そしていかにもそのお月様自体の光の様に、光り輝いて来ると云う事なんです。真如の月と云う事はそう言う事だなと言う風に、今日私は頂かせて頂ました。
 だから皆さんどうでも、信心する人はね、何事にも真心になれよと。神様の前だけが真心ではなくて、もう何事にも真心にならなければいけません。何事にも真心【まごころ】をもってしなきゃいけません。しかもその真心と思うておる真心も、果たしてこれは自分の真心か。果たしてここに飛行機を一台献納しようと思いよるが、これは真心か神様が喜んで下さる事かどうかと言う事を、確かめなければいけません。
 でないとそれこそ、雨の降りに真心と思うてしたことが、なしてはならない事をした。晴れてはならない日に晴れたから、言うなら滴くが落ちるまではこうして、ね、ぶら下げられておかなければならないと言う事なんです。だから本当に何事にも真心になる、真心になりよると簡単な様ですけれども、果たして自分が信心になっておる積りだけれども、ただ積りではおかげにならんと言う事です。
 文男先生じゃないですけれども、積りだろうけれども、なら結果においてはおこられんならんと言う事。「信心する人は何事にも真心になれよ」。いわゆる真心になれよと書いてあります。その真心【まごころ】という、その真心になれと言う事をです、今日私ご神前では、「真如の月」と頂いた。本当の意味は私には分かりませんけれども、恐らく満月の事を真如の月と言うのじゃないでしょうか。
 曇って一点ない鏡のような月と言う意味でしょう。だから私共はそう言う心を和賀心という。その和賀心を愈々目指し、又はそれを追求していわゆる研究してでもです、自分の心の中にそれを頂いて行く。心の中が明るいとこおかげを受ける。自分の信心がどうこうじゃない。おかげは矢張り太陽の光を、の反射を受けて光っておる。自分には力は実はないんだと言う事だ。けれども私共がそういう精進をさせて頂く所からです、やっぱり三日月は三日月だけの光、半月さんは半月の光である。
 所が私共の心は、どう言う事になるかというと、それこそ暮れの闇の様な状態では光りが写らない。おかげは写らないと言う事になります。ただおかげを頂くということは出来ますようですね。受けお取次ぎの信心によってです、頂いてもらうと言うおかげは頂きますけれども、自らの信心によってとかね、願わんでも頼まんでも限りなく頂けると言った様なおかげには繋がらないのです。
 どうぞその真如の月と言う事と、今日頂く何事にも真心になれよと言う事を、一つ思うてみて自分が今言うておる事しておる事。果たしてこれは真心になっておかげを頂いておるかと言う事をね、真心になれよという、ただこれをなら真心とかく、但し普通の信心でもいいんですよ。自分が信心させて頂きよるものが、こげな事でよかじゃろうかと言うような事があってはならないと言う事なんですよね。
   どうぞ。